あっくんさんは書楽せえぜ。

写楽じゃなくて、書楽。しょらくせえとはオレのことですよっと。

視聴者を馬鹿にしない勇気

チラッとフジテレビをつけたら、織田裕二の連ドラ『Oh,My Dad!! オー、マイ・ダッド!!』をやっていた。

視聴率的には低迷しているようだが、この時間帯にはほどよいまったり感を出していて力を抜いて見られるのでまあまあ悪くない。

これがもし半沢直樹だったら。

見終わって明日のことを考えると今週はまだ後1日残ってんじゃん!と風呂上がりの脳みそがまた汗だくになってしまう。

 

部分的にチラ見しただけなので、内容を深く説明はしないし論じるつもりもないけど、中盤でこんなシーンがあった。

元一(織田裕二)が息子の光太から届いた手紙を読むシーンがある。文中で可愛い一人息子は「お母さんにグローブを買ってもらった」と書いてある。

その後、元一は元妻に電話して、グローブを買ってやったかと尋ねる。元妻の紗世子(鈴木杏樹)は買ってないわよ、とそっけない返事。ここで元一は、息子が手紙に嘘を書いていたことに気づく。毎日野球をしていて楽しいです、と書いてあるのだが、不自然さに気づいたわけだ。

 

 

まあそれ自体は別にどうでもいい。気になったのは、その後の数シーンでフラッシュバックが連続し、手紙の内容と元妻の「買ってないわよ」のセリフを反芻するカットが続くのだ。いやいやそこまで繰り返さなくてもほんの数分前のシーンなんだから忘れてないし分かるってば!と見ているこっちは余計なお世話感で一杯になるわけだが、最近のテレビドラマはこんなクドい説明シーンを結構見かけるのだ。

これって何なのか、と言われれば、テレビドラマというものの特性だというしかない。

 

1つ目に、テレビとはいつ視聴者が見始めてもついてこれるような作りにしなきゃいかんということ。これが映画なら普通は最初のシーンが始まる時間にはみんな席についてじっと待っててくれている。

ところがテレビはいつ見始めたっていい。10時からのドラマなら、10時ジャストに見てもいいし、10時5分からでも16分からでも32分からでもいい。逆に言うと、いつ見始めてもいいような作りにしておかなきゃならない、とも言える。

だが、現実的には、上記のような条件を完璧に用意してあげると内容がめちゃくちゃになるのである程度はしょうがないと割り切って前に進ませるわけだ。

 

2つ目。これが今回のシーンに当たる。

「これは普通の感性を持っている人ならいちいち説明しなくても分かるでしょ」というシーンはなるべく減らす。なんとなーく分かる、ってのはついてこられない人がぽろぽろ脱落していく原因になるからNG。高度なジョークや一般常識、人物同士の言葉を略したやり取りなど。

今回のシーンはこの2つ目に該当する。テレビとは、誰でも分かりやすく作らなきゃならない(その方が親切だ)からだ。

その最たるものがNHKの朝ドラだ。いちいちナレーションを入れて解説する。懇切丁寧にするのが老若男女が見るドラマの鉄則だから。

視聴者の中には、感が鋭い人や知識が豊富な人がいる一方、感の鈍い人や知識の浅い人(これは無知な人って意味だけじゃなくて子供や外国人も含む)もいる。あらゆる人々に見せる上で、最大公約数をフォローしてあげる方針を取るわけだ。

だから、上記のようなクドいシーンを積み重ねて何とか暫定視聴者(チャンネルをたまたま合わせて試し見しているような状態をそう呼んでみる)をそのまま最後まで見続けてもらおうとする作戦を取るのがセオリーというわけ。

でも。

それはぶっちゃけ、一部の視聴者にとっては馬鹿扱いされているように見える。と言うと語弊があるが、要するにレベルの低い人をターゲットにして構成を組み立てる習癖はそろそろ卒業してもよいのではないか。ドラマだけの話ではなく、あらゆる番組の構成がこのセオリーに沿って作られている印象を拭えない。

 

いささか乱暴な決めつけなのは十分承知の上だ。

 

視聴者のマジョリティをもっと高いレベルに想定し、ついて来られない人を勇気を持って振り切る方策に移行してもいいんではないか。

置いて行かれた(と感じる)人は当然出てくる。その人達には別の方法でフォローしてあげる。再放送や解説サイトや、別の手段を用意すればよい。ゲームにおける解説本があるように、テレビドラマにも相当するものを準備すればよい。それを一般視聴者に作らせてもいい。

 

あと、「これが分からないのはあなたが馬鹿だからじゃありませんよ」というムード作りも必要かな。

ただの過剰な親切は、余計なお節介にしかならないと思う。

 

 

視聴者を馬鹿にしない勇気を、ドラマに。